少し早かった話
ここ暫く、小説を更新しようにも出来なかった理由を書いておこうと思います。
ただ、特に読む必要はないものなので、あくまでご報告という形のみで書こうと思います。
父が逝去しました。
病状を自分から喋ることはなく、祖母より先に旅立ちました。
ここ最近は忙しすぎて、まだ自分の中で悲しみを消化できていないと思います。
私は元々音楽が好きで、ずっと音楽ばかり作っている人でした。
そんな私が小説を書き始めたのは本当に突然のことで、何の素養もなく書き進められたことはどこか不思議に思っていました。
後になって父が詩人や小説家に憧れていたことを知ったので、今思えば父から何かを受け継いでいたのかもしれません。
発売した本は買ってくれていて、感想もいただけるようになりました。
父は誰かを褒めることが滅多にない人だったので、久々に大きな繋がりを得たような気持ちになりまして。
キザなのかシャイなのか、『きゅうけいさんは休憩したい!』なんかは私より弟の方が褒めた話を聞いていたみたいで。
私が小説家でいることが本当に嬉しそうだったので……だから離れた地にいても、私が活躍していることが何よりの恩返しになると信じていました。
そして、私は『黒鳶の聖者』でWeb小説大賞を取りました。
連載開始日は2020年2月、既に世間はコロナウィルスの話題が出始めていました。
それからしばらく、私は父に会っていませんでした。
医者の連絡で再会したときには既に肺癌が脊髄に転移し、下半身が動かず寝たきりになっていました。
レントゲンを見ると、七年前に大腸癌摘出から転移した豆粒大の肺癌が、片肺を全て埋め尽くしており、もう何も手がないと。
十二月には農作業をしていたようで、突然入院したのだそうです。
帰って部屋を整理すると、父の部屋にはいつか私に聞かせるつもりだったのか、ギターとベースと大量の楽譜がありました。
次男との話題にするつもりだったのかプラモデルが途中まで出来上がっており、三男との話題にするつもりだったのか、地元のゆるキャラの粗品がいくつかありました。デスクトップには三男の作ったゲームがありました。
父は寡黙でしたが、偏見のない審美眼を持つ人でした。
小学校の頃にはミュージ郎のSC-88Proを買い与えてもらって今の自分が出来上がりました。
BeatlesやKing Crimsonのレコード世代だった父は、部屋ではLed Zeppelinなどのギターを練習していました。一方でメモによると去年のアニメも水星の魔女など大多数を見ていたらしく、感想が書かれていたのはSPY×FAMILYのみで、ベースの練習をしていた曲はミックスナッツでした。
作っていたプラモデルは松本零士の戦闘機の他に、ヱヴァンゲリヲンとファイブスター物語でした。
幼少期にはファミコンより前にPC-88のゼビウスを触らせてもらいました。そんな父が最後に遊んだゲームは、ランク415になったリングフィットと図鑑コンプリートされたアルセウスでした。
そんな67歳でした。
どんな話でも合う人で、FFのボス曲の話題を出すとELPのTarkusを出され、音楽の話題を振るとKeith JarretやChick Coreaを紹介されました。
だからか、ここ数日は何かに手をつけたり見る度に「父ならこれにどんな反応をするだろう」と思い……あれ、自分ってこんなに父のこと気に入っていたのかと驚いています。
父から小説の感想を貰えるのは、短いやりとりながら何よりも嬉しいものでした――ということを、伝え損ねていたと思います。
何で言わなかったのかなあ……。
皆さんは、そういうことがあるなら必ず伝えてくださいね。
三月半ば、病室で会った時は頭もしっかりしていて、いろいろと喋りました。
そんな面会の日々が続くと、もうしばらくは元気だろうと思っていました。
折角なのでと28日に松山城へ弟と向かい、満開の桜を撮りました。
やらなくてはいけない予定もあったため、「次は何を話そう」と思いながら私は29日に千葉まで戻りました。
三男伝いで医者から「会話が出来なくなった」と伝えられたのは30日のことでした。
最後は、自ら救命措置を断ったそうです。
数年ぶりの再会から、半月後のことです。
父は坂本龍一の三日後、畑正憲の五日前に逝去しました。
当然ニュースになったりすることはありませんが、私の中では二人より偉大な人です。
私は音楽家であり作家ですが、本気でそう思っています。
一番読んでほしかった人の感想はもう貰えなくなりましたが、私は自分の小説を更新再開しました。
もしかしたら、どこかで読んでいるかもしれませんからね。
千葉に戻ってきた頃には、桜が散り始めていました。
次の季節が巡ってきます。